28/小さな断片と思い出
昨日は渋谷で打ち合わせが一件。深夜になってスナップを撮りに外へ。
雨が降っていたのでTouit2.8/50Mの気分。マクロであることは私にとってはすごく重要。
というか、カメラを初めて持った時の え、なんで寄って撮れないの!? っていうストレスを思い出したく無いというか...笑
深夜ではあったけれど、交通量もそこそこあり、人も歩いていて、街灯もたくさんある。この辺はベッドタウンなのかな?実家のある横浜市よりも街自体は明るく感じる。
写真を撮る人はそれぞれ、写真を撮る流れになりやすい方法があると思う。
実家に住んでいた頃の私のそれは原付だった。原付で何処かへ行って、なんとなく ここがいい と思った場所で降りて、三十分くらい歩きながら撮って、また原付で移動する。
大好きなみなとみらいまで一時間弱で行けたからよく通っていた。その辺でバイトもしていたから、バイト終わりの深夜にスナップを撮ったりもしていたなあ。
今住まわせてもらっているところは原付を停めていられないので、自分の脚でスナップを撮る習慣がついた。
ちなみに、私にとって自転車はスナップを撮るには向いていなかった。ここで撮りたい!って気持ちが歩くよりも早い速度で多く感じてしまうし、それを全て撮りきるには、撮りたいと感じてからすごく時間がかかってしまうから。結果、自転車を押して歩くという訳がわからないことになってしまった。
昨日は写真家 ソールライターの言葉を思い出していた。
It is not where it is or what it is that matters but now you see it.
重要なのは、どこで見たか、何を見たとかということではなく、どのように見たかということだ。
A photographer's gift to the viewer is sometimes beauty in the overlooked ordinary.
写真を見る人への写真家からの贈り物は、日常で見逃されている美を時々提示することだ。
Photographs are often treated as important moments but really they are little fragments and souvenirs of an unfinished world.
写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ。
私の中でのこの言葉のポイントは"重要な瞬間"と"見逃されている美"というところ。
私は、見逃されている、なんて決め付けるのも違うなあと思っているし、瞬間に重要も重要でない、という差なんてないと思っている。
(じゃあシャッターを切る瞬間と切らない瞬間の差はなんだ?)
だから、私はきっとただ存在しているものを撮っているだけの存在だ。
これをアートというのかはわからない。
けれど、先日面白い文章を教えてもらったのでここで紹介したい。
【対談】堀江貴文×チームラボ代表・猪子寿之が語る「アートが変える未来」
ーーサイエンティストは、人類の見える範囲を広げてきたと思うんです。対して、アーティストは、「人類の世界の見え方を変えてきた」と思うんです。
【サイエンティストは、人類の見える範囲を広げてきたと思うんです。対して、アーティストは、「人類の世界の見え方を変えてきた」と思うんです。】
読んだ時、この言葉に衝撃を受けた。確かにそうだ。と思った。
そもそも何がアートか、アートでないかなんて、人によって変わるものであるし、そもそも他者が決めるものだと思う。
そして、私にとってのアートというものは、触れた人 その人が生きる世界の見え方を変える力を持っているものだ。
だから、私が撮ったスナップが
アート/アートじゃない
好き/嫌い
良い/良くない
とか、そういうのはもちろん見る人それぞれがジャッジすることだけれど、
私が撮った空の写真を見て、あぁ 最近下ばかり見ていて上を向くことを忘れていたなぁ とか、
バイト帰りはいつも早足でただ家のことばかり考えていたけれど 今日はゆっくり街路樹を眺めたりしながら帰ろうかな とか、
何かに気がついたり、大切に思っていたことを思い出させてくれるものであってほしいと思う。