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先日、アクセサリーブランド SpellboundSplendor を立ち上げました!!
spellbound.buyshop.jp
また今度、詳しくブログに書こうかなと思います。
最近、記録、データとしての写真について考えている。
写真というのは、否が応にも、撮影者が誰であれ、誰かによって、何かによって、勝手に価値が上乗せされる可能性のあるものだと思う。
電車とその線路の傍の菜の花を撮った写真が、いずれその線路が廃線になる時に価値が出るかもしれない。
いずれ大気汚染が進んだ時に、今日撮った青空の写真が貴重な資料として扱われるかもしれない。
でも、私は、正直このことに関しては、まず 嫌だな と思ってしまった。
もちろん理解はできる。
写真っていうのは被写体が存在する。
データである。
価値がついてしまうと説明したが、それは、被写体に価値がついた場合、ということ。
(もちろん撮影者に価値が、って場合もあるが、今回の題材はそっちではない。)
自分が何に対して嫌悪感を抱いたのか紐解くと、
誰が撮っても、その価値のつく被写体が写っていればその写真に価値がある。とかってことと、
いずれ価値が出るかもしれないから
って思いながら撮ることがってところだった。
というかそんなこといちいち考えながら撮っているわけではないけれど、そういう、撮ることを全肯定する考えを撮影者が持つべきじゃないんじゃないかなと。
どんな写真を撮っても、撮れても、それを撮影者が「(出来はどうであれ)撮れたことに価値がある!」とか言うことにすごく抵抗がある。
確かに撮れたことに価値はあるかもしれないが、撮る側がその考えを発信していいの!?と。
意味合いはちょっと違うかもしれないけど、例えばライブの写真で
思ったように撮れなくて、出来上がったものが全然良くなくても撮影者が「あの時の生であるが故の不安定感を写真で表現した!」とかって言って、言葉で誤魔化すのと似ているように思う。
結局あんまりまとまらなかったけど、撮影する側は、自分が撮ったことに価値がある!とか、データとして残したことに価値がある!とか、そういうことを思うべきじゃないなと。そういう肯定の仕方は嫌だなと。思っている。。
というより、価値のある/価値のないってなんなんだろうね。。