14/NOTHINGSTAYSTHESAME













『森山大道の言葉』森山大道の名言集みたいなもの。この本を読んだらすごく良かったので、是非読んでいただきたい!森山大道といえば大阪府出身の写真家で、「アレ・ブレ・ボケ」っと形容される作風が特徴である私が通っていた東京ビジュアルアーツの顧問であるみたいだけれど、私は在学中に彼のことを知ることは無かった。そういえば学校の入り口に作品が飾ってあったなあって思い出したくらい。









"所詮写真はコピーなんだから、自分の写真集から©︎を外したいくらい。オリジナリティーやアートだなんていうのはおかしい"。
”撮る対象と自分。他者の興味から始まる自分自身への興味。撮る対象は自分自身である。”
”写真とは時間を〈定着〉する行為であり、世界を〈表現〉する行為ではない。

















前にブログで、写真はそもそも対象に依存しているのに、撮影者の個性がとか、どの段階でそれが発生しているんだろう、って書いた。
私は撮った人と撮られた対象の掛け算は存在すると思っているから、撮影者のオリジナリティを否定してはいない。なんでその掛け算が存在すると信じているかというと、私は何を撮っても「セルフポートレートになる」と思っているから。
何かを撮る時、それを撮ると決意した瞬間、そこには自分を投影している。
だから。何を撮ろうが、そこに映り込んだ自分自身を撮っているようなもの。





















もう一冊おすすめの一冊。
杉本博司『アートの起源』

しょっぱなから意味がわからない文章の連続だったけれど。意味がわからないって言い方は乱暴すぎたかもだけど、でも覚悟して読まないといけない本だと思う。めちゃくちゃメモを取ったね、、、この本、知識量がすこぶる多い。


去年恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館にて展覧会を行ったことが記憶に新しい。元々彼は写真家と呼ばれていたけれど、写真以外にも建築などの活動もされている。世界では有名な現代美術作家である。
去年の展覧会『杉本博司 ロスト・ヒューマン』では、私は写真のみの展示だと思っていたのだけれどそうではなく、世界の終焉の様子を再現、した空間が広がっていた。




本展覧会では人類と文明の終焉という壮大なテーマを掲げ、世界初発表となる新シリーズ<廃墟劇場>に加え、本邦初公開<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>、新インスタレーション<仏の海>の3シリーズを2フロアに渡って展示し、作家の世界観、歴史観に迫ります。  
展覧会はまず、文明が終わる33のシナリオから始まります。「今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない」という杉本自身のテキストを携え、≪理想主義者≫≪比較宗教学者≫≪宇宙物理学者≫などの遺物と化した歴史や文明についてのインスタレーションを巡り歩きます








三階展示室では<今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない>、
二階展示室では<廃墟劇場>シリーズの展示があった。

廃墟劇場シリーズについて。
廃墟になった映画館や劇場で映画を上映した様子を撮ったもの。上映中シャッターを開き続け、映画一本分の光を銀塩プリントの上に表現した作品である。


私はこの作品を一番初めに見たのはtwitter上だったのだが、まずその作品の強さに圧倒された。そして、当時の照明を復旧させたり、色あせてしまったカーテンや座席シートの色を現代の技術で再現するのではなく、映画の光のみでそれを表現したことに感動した。












カメラを買ってもらって、それからスタートした私の新しい時間軸の中で、「被写体の色の大切さ」に悩むことは多いし、定期的にその問題が浮上するのではなく常に私の中に鎮座している。
誰しもがこの世界を同じように見ているとは思っていない。
だから、私が見たものを私が見ているように表現することは間違いではない。
でも、そうはいえないものもある。例えば商品撮影。

じゃあライブの写真は?スナップは?

18-135mmのセットレンズを通り、PENTAX K-5のボディーを通り、フィルターを通して映し出されたものはそもそも現実なんかではなく、そしてそれ自体が現実で真実だと私は感じた。
結局それが現実であった。何を真実とするかは自分次第だった。


杉本博司が映画一本分の光のみで撮影したことを知った時、私の中でのその考えは固まってしまった。
その映画館にとっては映画を上映している時のみが真実で現実だったとわかった。






森山大道は
”写真は複写機である”、”写真は記録するものである”
ということに軸足を置いている。
杉本博司は廃墟劇場シリーズに関してのインタビューで
”映画を一本分上映した結果、写真の中でスクリーンは真っ白に写った。つまり写真は記録はするが記憶はしなかった。”
と伝えている。








写真に記録されているのは、被写体に選ばれ撮らざるを得なくなった、撮影者の思惑と記憶、被写体自身の思惑と記憶だと私は思った。
そしてそのどれもが、撮影者のセルフポートレートである。




























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