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10月, 2017の投稿を表示しています

41/全て鏡

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自分が撮った写真、デザインしたジュエリーは、私には全て鏡に見える。 作品自体に鏡を使っていてもいなくてもね。 自分が写っている。作品を通して自分が見れる。 自分のことは自分が一番よくわかっている、なんて言うけれど、なんだかんだいって自分のことなんてよく見えてもいなければ理解もできていないんじゃないかな。 だから自分が一体何者なのか知りたくてやっているのかもしれない。 そしたら、自分は自分一人だと何者でもないってことに気がついたりするんだけどね。 そんな気はしていたから気がついた時にショックは受けないが、まぁヘコんだ。そんなこともあるね。 これから販売する予定の写真プリント、今販売中のSpellboundSplendorのアイテムが、手に入れてくださった人の心を動かすだけでなく、自分を見つめ直すきっかけになるようなものになればなと思う。 そういえば最近キッチリした格好にシルバーアクセを重ね付けしまくるスタイルにはまってる!面白いよね。 ...鏡を使った作品はいくつか作ったな。 年代順 1枚目は昨年京都国際映画祭に出店した作品だ これはステンレス半球に実際に自分が映って撮ったもの。もう三年前の作品だ。 唯一タツさんに褒められた作品じゃないかな...笑 思えば、ちゃんとコンセプトをもって作品作りをしたのがこれが初めてじゃないかな。

40/ルーツ

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今年に入って書き始めたブログももう40回目! 今まで自分の好きな作家についてのブログを何回か書いてきた。 🔷 Dustin Yellin 🔷 GABRIELA MORAWETZ 🔷 森山大道 🔷 杉本博司 🔷 Imogen Cunningham 🔷 Duane Michals とかとか。 ライブカメラマンだったら好きな人はいっぱいいるし、あとはThe1975のMVや写真は特に大好きだなぁ。 コムデギャルソンの写真も好きだし、何より川久保玲さんが大好き。 画家ならミュシャ、ルネマグリットは高校の美術の教科書で見て衝撃を受けた。 今年の6月から7月まで松濤美術館で展示会が催された、クェイ兄弟も好きだ。 建築家のXavier Corberoも好きだし、ミニチュア作家のCharles Mattonも好き。 ジュエリーなら、この間ブログで書いたSONWAIが好き。 そういえば、私の同世代のカメラマンはどんなものに影響を受けているんだろう? ちょっと話は変わるけれど、 『自分の作品作りだと自分の色が出せるけど、お仕事だと制限がかかるから自分の色が出せない』 ...なんて声がクリエイターの中で上がることがある、というか、クリエイターじゃない人でも、こういうものだと思っている人は多いんじゃないかな? そんなことないから! お仕事は誰かと何かの目的に向かってやるもので、好き勝手自分の好きなようにやっていいものではない。けど、たとえ、皆んなで目指している完成形が自分のやりたいニュアンスのものでなかったとしても、その制限の中で自分が納得できるもの、誇れるもの、良いものを作るのが当たり前じゃないのかな? むしろ『お仕事だと自分の色が出せない』と言っている人の『自分の色』ってどんなものなんだろう?そんなにいろんなものに対応させられない、がっちがちに固まったものなのかな? いろんなものを食べて、味わって、自分の料理のレパートリーを増やせれば、もっといろんな世界が見れるんじゃないかなと思う。

39/小松美羽×台湾VOGUE

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小松美和 台湾VOGUE 【 神隱少女成人版? 小松美羽的神獸世界 】 台湾VOGUEのサイトに記事がアップされました。 写真たくさん使っていただいています! 🔷 台湾VOGUEウェブサイト 一番トップに表示されている写真も私が撮影したもの! そして、台湾だけでなく、香港にまで広がっているそうで、、なんと香港の新聞にも! 🔷 香港01ウェブサイト このトップ写真もそう。この写真は、6月に開かれた『小松美羽展 神獣〜エリア21〜』のメインイメージとしても使われていました。 西武線の中吊り広告にも! 台湾VOGUE、少し前に公開されていたのですが、Facebookにていいね数がぐんぐん伸び続けていて、今日の朝で2.4万人!凄すぎる。こんな素晴らしい機会に自分の写真を生かしてくださることは本当に光栄なことだ。

38/Duane Michals

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つい昨日知ったアーティストDuane Michalsの作品がすごく良かった!! Duane Michals デュアン・マイケルズ (ドウェイン・マイケルズ、Duane Michals、1932年2月18日生まれ)は、アメリカ合衆国の写真家である。同性愛者。彼の作品は、その革新性と芸術的技巧性により知られている。マイケルズのスタイルは、フォトシークエンスを構成することと、情緒及び哲学を省察した文章の取り込みとを特色することが多く、その結果として独特な作品が形成されている。 マイケルズはペンシルベニア州マッキーズポートで成長し、1953年にデンバー大学を卒業した。1956年、グラフィック・デザイナーになるためにデザインを学ぼうとしてパーソンズ・スクール・オブ・デザイン (Parsons School of Design) に入学するも中退、1958年休暇の旅行で訪れたソ連で、写真への興味に目覚めた。この旅行中に撮られた写真により、彼の写真の初の展示会が、1963年ニューヨーク市のアンダーグラウンド・ギャラリーで開かれた。 数年の間、マイケルズは商業写真家として働き、「エスクァイア」( Esquire ) や「マドモアゼル」( Mademoiselle ) に作品を提供したり、また1974年には、「グレート・ギャツビー」の映画化に際して「ヴォーグ」の特集記事を担当した。彼はスタジオを持たず、人物を「環境」の中においてポートレートを撮影した。これは、リチャード・アヴェドン (Richard Avedon) やアーヴィング・ペン (Irving Penn) などの他の写真家の手法とは対照的なものであった。1968年、マイケルズはメキシコ政府から同年のメキシコシティオリンピックの写真記録を委嘱された。1970年、彼の作品はニューヨーク近代美術館に展示された。 彼の写真集  Album  は、1958年から1988年にかけて撮影されたポートレートがもとになっている。 1976年、マイケルズには全米芸術基金 (National Endowment for the Arts) からの助成が認められた。また、彼は、1983年にはポリスのアルバム「シンクロニシティ」の、1993年にはリチャード・バロン (Richard Barone) のアルバム 

37/Pretense

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OLYMPUS E-P5 × Summarit f=5cm 1:1.5 「あの時もっとやれたのに」「もっと出来たのに」なんていう漠然とした言葉、言うのはいつも簡単だ。そしてそんな漠然とした言葉しか出てこない時は大体その言葉に中身なんてない。 それでも過去を振り返って、まず心の中にその気持ちが浮かんでくる事は私の中では当たり前だ。 私は思えば大分早いうちからお仕事をさせてもらっていた。大勢の大人に支えてもらっていた。 失敗は今でも多いが、昔から、毎回毎回人生にちゃんと向き合っていけていたんじゃないかと思う。後から思えば準備不足だった なんてことは余裕でたくさんあるが、その瞬間瞬間で手を抜いた記憶はない。自分のポジションやお仕事に誇りを持っている。自分にポジションを与えてくれ、お仕事をさせてくれた人達には有難い気持ちでいっぱいだ。 だから、ある人をあるモノを、もう撮ることができなくなってしまったとしても、そういう意味での後悔は無くて。 ただ悲しいのは、 その人の成長を知れないこと。 これから先写真というものを使って一緒に時を刻むことが出来ないこと。

36/SONWAI

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ジュエリー紹介ブログ! SONWAI作 リング ゴールド、サンゴ、ターコイズなど。 S ONWAI 本名 ヴェルマ・ネクアテワ 1949年アリゾナ州ホピ居留地ホテヴィラ村生まれ 1966年から1989年まで叔父であり、カリスマと呼ばれたインディアン・ジュエリーアーティストのチャールズ・ロロマの弟子としてジュエリー制作に取り組む この時、ロロマがヴェルマにソンワイと命名。(ホピ語の女性詞で”美”を意味する) つけてみるとこんな感じ。 つけ心地はすごくいい!インパクト大。 ただ、石部が大きいからカメラを握りこむ右手につけるとダイヤル調節しづらいからいつもは左手に。 ソンワイの師であるチャールズ・ロロマは、儀式やお守りに使われていた装飾品を、現代ジュエリーへと高めた伝説のアーティスト。ソンワイが彼のことを語ったインタビュー記事がすごく心に響いた。 「. . . よくインディアン・ジュエリーには「これはなにがしを象徴している」といったテーマがありますが、彼の作品は全く違った。これまで見たこともない叔父のデザインにホピの人たちは「これは何を意味しているの?」なんて尋ねたものです。そんな調子だから、人との摩擦やつらい出来事に遭うことも多かったのですが、それでもロロマには前に進む力があった。その力は、一見矛盾しているようですが、ホピ族であるという強い自覚と責任感があったからこそ生まれたものでした。ロロマのデザインは、ホピの精神を形にしたものだったのです。 . . . 」 前回のブログで書いたことともリンクすることだと思うけれど、ロロマやその弟子が貫いていたのは、伝統的なデザインだとか代々受け継いできた製造方法とかではなく、それらを変化させようという精神なんだと。 きっと真っ当に成長を求めてやっていればやっている人ほど、ブレてる/ブレて ない とか、初心を忘れるな あの頃から変わってしまった だとか、言ってくる人は一定数いると思うが、小手先のことだけを見てそういう人のことは気にしないのが一番だと思う。 でも、そう言われるのも無理はないはず。だって精神性は直接目に見えるものではないし、、、 でも一番良くないのは、そう言われた時その言葉の表面

35/past things collectomania

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私たちは撮る/撮らないというのはどういう基準で選んでいるんだろうか? まぁそんなことを私は何回もブログに書いていて毎回答えが出ていないわけだけれど、この間もっと深刻な問題に気がついた。 "撮ったのに現像しない写真、めっちゃあるんじゃない!?" 私の写真現像は、大体はLightroomに全データ取り込む→Lightroomで整える→LightroomでいじりきれないところをPhotoshopで触る って流れ。 Lightroomにまず取り込むのは、前後の写真を見比べるのが楽だし、プレビューで見るよりスムーズだから。そして何よりレートをつけられるから。 わかりやすいように、現像する予定の写真に星を一つつけて、、 "同じ構図で同じ被写体を撮って、三枚撮ったうちの一番最後の写真が一番良かったから、それ以外の二枚は現像しない"  っていうのはわかるんだけれど、" この構図でこの被写体を一枚しか撮っていないのに現像しない"  っていうのも結構あるなぁって思った。 そもそもなんで写真を撮りたいって思うんだろうね? 被写体が人物だったり、なにかオブジェでもそれを作った人に写真を見せることができるのなら、その人に喜んで欲しいから撮る、とかって理由ができるのはわかる。 でも、そうじゃないのなら、ただの自己満足だよね。いや、喜んで欲しいっていう気持ちも、自己満足だと思うけれど。 思えば前から、自分の為に活動している人が好きだった。 私が大好きなThe1975はよくインタビューで、自分達の為に音楽をやっていると良く発言している。私はそういう考え、すごく好き。 誰かの為に何かをしたいとかって気持ちは、自分が何かを目的を持って継続して続けていけば自然に湧き出てくるものでもあると思う。けれど、その誰かの為っていう気持ちを前面に押し出すのは開き直っているみたいで嫌だなぁ。 むしろ発信する側はそういう気持ちですら自己満足でしかないと考えているのが私にとっては自然だ。だから"自分の為に自分の活動をしている"という

34/蜘蛛の糸

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最近はお仕事がバタバタで、夕方に起きて朝方に寝るというサイクル。 なので朝方のスナップが日課になってきている。 写真を撮るということは何かしらの感情を対象に持っているということ。 蜘蛛の巣ってもっとちゃんと規則正しく組まれているものと思い込んでいたけれどそんなことはないっぽい。 蜘蛛の巣は全部が粘着質なわけではなく粘着質な液体を等間隔で巣にくっつけていて、蜘蛛はその液体を避けながら巣の中を移動しているそうだ。だから、乱れている部分には、それに気がつかずに自分の足を引っ掛けてしまった箇所もある。それ以外にもきっと、風が吹いたり、獲物をとるうちに崩れたり、、。そもそも規則的に巣を作るのが苦手なのかもしれない。 そういうことを考えて、無意識に自分に置き換えて考えて無意識に自分を慰めるような解釈も想像しているのがすごく嫌いだ。 自分のやっていることに誇りを持っているのは素晴らしいことだし、それを貫きたいという気持ちは当たり前のものだと思う。 だけれど、その気持ちをあんまり肯定しすぎるのは好きじゃない。 音楽もそうで、あんまりにも 「私たちは苦しみながらも進んでます!!なにがあっても突っ走って行こう!」 とか 「周りの大人が言うことやルールなんて意味わかんない!周りが私たちを苦しめている!だから私たちは私たちだけで突き進むしかないんだ!」 とかっていう歌詞の曲は私は聴けない。 そういう曲かそういう曲でないかは、”向き合っている”か”開き直っているか”  のどちらに感じるかっていうすごく曖昧なものではあると思うし、 ”アーティスト本人は人生に向き合って生きてきているだろうに、歌詞だけ見ると開き直っているように感じてしまう” とか、 ”インタビューでは、壁にぶち当たってから人間的に成長をした、と言っているが、曲は以前と変わらず開き直っているものばかり” っていうものもある。 その作品だけでそのアーティストの人間性は知ることも理解することも無理だと思うが、作品には必ずその人の思想が乗る。 よく、”現状で満足した